【哲学専攻】問わなければ、満足して死ねない。

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石田寛子 さん

文学研究科特別研究員(哲学専攻)



「顕現せざるもの」の経験をどう捉えるか

Q)まず、石田さんのご研究の魅力を、一般の方へアピールしていただけますか。
A)最近学部の授業を持つようになりましたので、いつも、「どのようにすれば伝わるのか」を考えているのですが…わたしの研究は、分野としては「現象学」、領域としては宗教哲学になります。本学には神学部もありますが、それと比較すると明瞭になるかもしれません。神学部の学びが神の存在、そしてその神へ向かうひとを前提にするなら、哲学科は神を前提とせずに、「宗教的」とされる経験そのものを追究する学びなんですね。宗教があって経験があるのではなく、まず経験一般があってそこから宗教が出てくるのではないかという、ベクトルが逆なんですね。わたしたちはふだんさまざまな経験をしますが、それは本当の意味において「経験」しているのか。それは「仮象」1に過ぎないのではないか。よって神についてもひとまずは「 」に入れ、現実の経験から出発するわけなんですね。批判に批判を重ねて最後にみえてくるもの、原初的なものがみえてくるのではないか。それにわたしたちは事後的に、「神」という名前を与えているだけなのではないか。経験にもいろいろありまして、とくに宗教にも繋がるそれは、「みえないものをみる」こと、「語りえないものを語る」こと、そして「知りえないものを知る」こと、「顕現せざるもの」の経験なんですね。それをどのように捉えるのかが、わたしの目下の研究テーマになっています。
Q)神学のことを比較対象に出されました。本学でこそやらねばならない研究だと思いますが、しかし一方、神学にも保守的な立場があるとすれば、石田さんのような問題意識を本学で持ち続けるのは、けっこう大変なことではありませんか?
A)仰るとおりですね! キリスト教の伝統と、思索の一形態としての現象学とは、実のところ分かちがたい関係にあるのではないかと思います…。やはり宗教における際立った問題として、その経験が本当のものであるかを問わなければいけないと思うんですね。絶対化してしまう、偶像化してしまう、ということもありますし…、そうしたことは個人的にも経験してきましたので、きちんと向きあって研究しなければいけないと思ったんです。「幻惑」と「真理」の近さと遠さですとか、「救済」とそうではないものとの見分けがたさですね。それらがどのように経験され、また仮象として見破ることができるのか…という、根本的な問いがあります。

「神なき」あり方こそ「神に近い」

Q)ご自分の信仰のうえでも、現象学と向きあう必要があったということですね?
A)はい。
Q)しかしそれは、回りに神学の先生がたくさんいらっしゃるなかで、かなりの決意と覚悟がなければできないことだと思いますが…。
A)確かに、あらためて認識しました! 仏教でも、坐禅の瞑想のなかで仏を観てしまうと、「槍で突き刺せ!」とか「頬を叩け!」とかいいますよね。まさに、観てしまったことへの誘惑に、いかに打ち勝つのか。そこが宗教の仮借なさ、でしょうかね。そうしたところに、常に立ち続ける覚悟は必要だと思います。
Q)哲学全般がそうなのかもしれませんが、「求道」ですね。
A)そうですね、道ですね、ハイデガーもいっていますけれども。
Q)しかし信仰と研究を、ある意味で一体化させる形でなさっているとすると、それらが乖離してしまう、対立してしまうこともあるのではないかと思いますが、これまで、そうした経験をなさったことはありますか?
A)難しくなってきましたね(笑)。しかし、どこかで自分の「神」を疑うという経験を…どこかで通過することは、むしろ必要かもしれません。人間はどうしても安きに流れてしまう、「安心」というものを求めますが、あえてそこで目を見開かなければ、本当のものには辿り着けないと思いますね。
Q)「神をみてしまうとき」は、自分がいちばん弱くなってしまっているときかもしれないですしね。
A)いちばん危険ですよね。そうした意味では、むしろ「神なき」あり方が、かえって「神に近い」、神聖なものに近いといえるかもしれませんね。

本を通して孤独と向きあう

Q)大変理性的な立場に自分を置かれていてすごいのですが、そうした研究のあり方の原点となる経験は、何かおありでしょうか?
A)哲学全般にいえることだと思うのですが、やはり「生きるとは何か」という問いが、根本にありますね。「自分とは一体何者か、この世において何をなすべきなのか」…それは、いつの頃からか考えていたと思います。自覚したのは、哲学科に行こうと思ったときで、中学生の頃だったでしょうか。
Q)多感で、自分と世界について深く考える時期だと思いますが、みんながみんなそうではないでしょう。かえって孤立感を深められたのでは?
A)仰るとおりです。学校では主題化できなかったですね。なので、本を通して2、自分と向きあうことが多かったと思います。その頃は、パスカルの『パンセ』3が大好きで! 危ない中学生ですが(笑)、なぜか本屋さんで出会ってしまったので。分かったような気になって読んでいたんだと思うのですが…何かそのなかに、「真実なるものへの問いがある」と、考えていましたね。
Q)どなたかとの対話のなかで、というより、本を読むなかで問いを深められていたんですね。
A)他者との対話と自己との対話、二つの大切な対話があると思いますが、気がつきますと、どちらも本を通してやっていましたね。
Q)でもそういう中学時代、高校時代は、やはり苦しさとか、つらさとか…?
A)苦しかったですね!(笑) 現実と向きあわなければいけないので…でも、そのなかで倫理や世界史の授業、あとは語学か、それらでは解放されました。
Q)倫理は分かりますが、世界史はどういった?
A)世界史はやはり、人間のドラマの展開、人間が生きてきた痕跡といいますか。先生がよかったのですが、そのなかに自分の生も、生きられてゆくんだなあと感じまして。
Q)書物を通して、哲学者やそのひとやそのひとの思想、過去を生きた他者たちと向きあいながら、問いをどんどん深められていったわけですね。もう高校生の時点で、哲学科に入学されているような(笑)。いままでうかがった話からしますと、哲学か宗教か、選択肢としては二つあったと思いますが、大学に入学されるときに前者を選ばれたわけですね。
A)当時何を考えたのかは明確に覚えていないのですが、やはり普遍的な問いとして、「真なるものとは何か」を深めたいと思ったのでしょうね。そのなかで、「神とは何か」「宗教とはどのような営みか」を、考えたいと思ったんじゃないでしょうか。この世にあらなければいけないけれども、それでいてこの世に埋没しない。「世にあって世にない」という、大変パラドキシカルなものが宗教だと思うんですが、それをいかに問うのかということで、哲学を選んだのではないかと思います。
Q)若いと、流行の現代思想などにかぶれてしまいがちだと思うのですが、割合に伝統的な大命題ですよね。
A)一方でそういうものへの関心はありまして…当時でいえば、『涼宮ハルヒ』とか大好きだったんですが。でも、そうしたものに距離を取らないと、自分の根本的な問いを見失ってしまう気がして。とくに中学生や高校生のときって、自分は何がしたいのか、何ができるのか、よく分からないですよね。それを見極めることができるのかが、いちばん大事だったのだと思います。自分が弱い人間だということを、自覚していたんです。もうすぐに、偶像とかそういうものへ、癒やされにいってしまうので(笑)。厳しくしなければいけないなと。
Q)中学生、高校生の頃から、石田さんのなかには、弱い自分をストイックに厳しくみつめる柱と、自分の興味関心を強靱に追求しようとする柱の二つがあって、その間で葛藤を繰り返していたということなんですね。それが「強い」、ということなのかもしれませんね。昔からの宗教者でも、強靱一辺倒のひとより、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、常に迷う弱いひとのほうが、共感できるし魅力がある。石田さんもそういうタイプなのかもしれませんね。
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学生時代を思い出し、笑みもこぼれる。

マリオン『存在なき神』との出会い

Q)上智大学へ進学を決められたのは、かなり早い段階ですか?
A)プロテスタントの中高一貫校に通っていたのですが、中3の頃にオープン・キャンパスへ来まして、模擬授業にも参加をしました。いろんな大学へ行ったんですが、上智がいちばん、居心地がいいなと感じました。
Q)実際に入ってみていかがでしたか?
A)すばらしいと思いました(笑)。入学式の、石澤良昭学長先生の言葉を覚えているんですが、「三つの出会いを大切してください。他者(学びの友)との出会いと、本(学びの書)との出会いと、先生(学びの師)との出会いと」。それはまだ、わたしの心のなかで、生きているなと思います。
Q)石田さんが辿ってきた道を、肯定してくださるような言葉だったのでしょうね。中学・高校では解放できなかった自分を、大学では自由にできましたか?
A)素晴らしかったと思います! 自分の興味・関心と適合する科目、とくに魅力がある専門科目が本当に多くて。自分が取り組みたい学問はこういうものだったんだって、明確になる経験をしました。自分の問題意識はどんなものなのか、照らし返されて、そしてもう一度自覚されるという。でも、教職課程を履修してまして、取らなければいけない科目が決まっていましたので、ほかにも取りたい学びがたくさんあったのですが、残念でした。
Q)そういうなかで、現象学との出会いもあったのでしょうか。
A)ちょうど、卒論で何に取り組もうか考えていたときに、このジャン=リュック・マリオン(Jean‐Luc Marion)の、『存在なき神』4が翻訳されたんですね。いろいろやりたいことがありまして、友だちとアミダくじを作って、テーマを決めようかなんていっていたんですが。
Q)お友だちのお話が出ましたが、中学・高校から深い問いを抱えていらっしゃって、大学で他の学生との間に温度差を感じる、熱量の違いを感じることなどはありませんでしたか?
A)いい意味で個人主義でしたが、それでもわたしたちの頃は、自主的な研究会がたくさんあって。自然消滅してしまうものも多かったんですが、授業外での学びを作るという趣向は強かったですね。
Q)大学院でやるようなことを、すでにやっていた?
A)そうですね。もちろん、先生に反発するガス抜きの会、という面も強かったですが(笑)。授業に出ないで研究会だけ出る、というひともたくさんいました。
Q)さて、そうしたなかで『存在なき神』ですが、その出会いは具体的にどんなものだったのでしょう。読んでいるうちにだんだん引きつけられていったのか、それとも最初から響いてくるものがあったのでしょうか?
A)どうだったのでしょう…。本が出版されるタイミングも、やはりひとつの恩恵、「与えられるもの」ではあったと思うのですが、当時は知識もあまりありませんでしたので、きちんと理解できてはいなかったですね。しかしそうしたなかでも、ここに書かれているのは自分のことであるな、ということが、一方では確信されていたと思います。根本経験があったはずです。何度も読み込むなかで、お互いに深められてゆく、そういう「真実の本」だったとは思います。現象学ですから、いまこの世界に自分があるという経験から出発して、自己と向きあい、他者と向きあい、世界と向きあうひとつの通路として、この本があったのだなと思います。

世界をどう捉えるか、哲学者の役割とは

Q)そうした形で考えますと、石田さんはご自分の学問を通して、いまこの世界をどのようにみていらっしゃいますか?
A)大きな問いですね(笑)。現代は確かに「神なき時代」ですとか、「宗教なき現代」といわれることも多いですが、他方、授業で若いひとたちと接していますと、霊性を非常に求めていたり、スピリチュアルな感受性が強かったり、昨今の若者文化のなかにも、彼岸的なものとか、神的なものとか、スピリチュアルなものへの問いや憧れが、強く表れているように思います。例えば『進撃の巨人』は、まさしく現代人の霊性への希求を反映している作品に思え、大変興味を抱き、アニメ版は一気に観ました。そうしたなかで、みんな、一生懸命もがいている。それに対して、宗教者や哲学者は何ができるのか、大学の役割は何なのかを、考えなければいけないと思っています。
Q)大学人は、若者たちと付き合っていながら、彼らの現実が分からなくなっていることが多いですよね。「若者」「若者」と、言い訳のように使用して、逆に物語りを搾取しているといいますか。石田さんはいま、学生/教員のマージナルなところにいらっしゃるかと思いますが、そうした視点からみえてくるものはありますか?
A)授業をしながら学生に向きあっていますと、向こう側から、かなりシビアに自分をみてくる、もうひとりの自分がいるんですよ。「この授業は面白いのか、われ」と。あの頃の自分を、納得させられるような授業をしたい、と思っています。いま音大でも、「音楽と宗教」というテーマで教えているのですが、この間、ハッとさせられるような問いが学生からありまして。「自分は無宗教なのだけれども、宗教音楽を演奏することもある。しかしそのときに自分は、一体何に向かって演奏しているのでしょうか?」と。非常に考えさせられることがたくさんあります。大学はいま、一体どこへ向かってゆけばいいのか。境界人としての自分は、学生とともに学びながら、そうしたことを肌で感じる経験をたくさんしているところです。
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丁寧な口調でマリオンを語る石田さん。

「人を育てる」ことほど尊い職業はない

Q)ここまでお話をうかがってきますと、大学院へ進学されるのは自然なことだったのかもしれない、とも思えますが、それでもやはり、哲学専攻へ進まれるというのは、思い切った選択ですよね。
A)実は、大学院には初めから行きたいと思っていたんです。学部の授業のなかで、問いを深めてゆくにつれて、これは一生終わらないのではないかという危惧があったんですね。たとえ一度逃げても、必ずまた引き戻されるに違いない。自分のなかで哲学的な問いを問わなければ、満足して死ねない、満足できないだろうと、そういう予感がありました。
Q)それでは必然的に博士課程も、ということなんですね。
A)はい、研究が終わらないというか、終わらせてもらえないといいますか。
Q)先ほど、別の道に移ることを、「逃げる」と仰ったのが印象的でした。しかし哲学の場合も、大学以外の場に身を置いたほうが思考が深まる、という場合はありますよね。それでも大学という場にあったほうがよい、とお考えになったのですね。
A)「人を育てる」ということにも興味があったんです。これほど尊い職業はないのではないかと。両親が高校の教員でしたし、わたし自身よい先生に恵まれ、見出してもらったという経験がありますので。ひとを育てる、ひとと問うということを、研究とともにできたらよいな、とずっと思っていました。ひとを育てる、そのなかで自分も育てられる、そういう一生を貫く仕事を、研究とともにできたらと。
Q)ではいまは、理想へ向けて着々と、ということなんですね。
A)そうですね、他の道を歩む強さがなかったのかもしれませんが(笑)。
Q)初めての研究会報告、学会報告については、覚えていらっしゃいますか?
A)はい、緊張しましたね…! 上智大学哲学会が初めてだったんですが、内輪とはいえいろいろな方が聞きにいらっしゃるので、メチャメチャ緊張したんですが。ただ、総合演習という授業でプレ発表がありまして。その場で鍛えられましたので、何とかこなせましたけれども。
Q)時間はどのくらいでしたか?
A)報告30分、質疑応答15分で、標準的なところだと思いますが。
Q)でも、哲学や思想の発表となると、なかなかその時間では語り尽くせない、意見交換もし足りないんじゃないですか?
A)そうですね。そもそも問いを共有する前提が整っていないので、どこから始めたらいいのか…という点もありますね。

社会とともに、社会のなかで

Q)さて、どうやら時間になってまいりました。おかげさまで、石田さんと同じように、孤独に問いを抱えている若いひとがこれを読んでくれたら、「あっ、こういう道があるのか」と、思ってくれるかもしれないインタビューになったと思います。最後に、大学院へ入ろうか迷っている、あるいは大学院へとくに関心がないひとにも興味を持ってもらえるよう、何かメッセージをいただけますか。
A)大変ですね(笑)。どんなひとにも、「やるべきこと」があると思うのですが、それをいかに見出すのか。その行程は苛酷なもので、もちろん乗り越えるのは簡単ではありませんが、あえて向きあってゆくことが大切です。いま、「何をしたらいいか分からない」と思っているひとこそ、そうした問いを心の内に抱えているのではないでしょうか。哲学という学問は、そういう方にこそ向いている、学んでほしいと思います。学部だけで満足できない方は、大学院へ進んでください。とくに最近では、一度外へ出られて、戻っていらっしゃる方も増えましたし、そうした経験のなかからでないと、みえてこないこともあると思います。大学院はそうした方のためにもあるべきですし、社会とともに、社会のなかであり続けることが、危急の課題であると考えます。
Q)なるほど。それは哲学を学んでいる方々すべてが、共通してお持ちの問いであり、思いかもしれませんね。今日はお時間をいただきまして、ありがとうございました。
A)こちらこそありがとうございました、こんなのでよいのかな(笑)。

  1. ……現象学の用語で、客観的実在性のない主観的表象をいう。 ↩︎
  2. ……エマニュエル・レヴィナス『倫理と無限』の第1章にて、書物が、人間の存在のあり方と不可分に結びついたものとして語られている箇所がある。 ↩︎
  3. ……ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal)による思索の断片が、死後にまとめられた主著。自己への深い省察、個人と共同体の関係、他者の問題にわたり、多くの箴言を含む。 ↩︎
  4. ……マリオンの主著。神をただ「与えるもの」と論じ、形而上学(人間の思惟)に取り込まれない形で、その超越性を定義する。 ↩︎